朱李

 

 

 むくれた環子を連れて青年は夜の街に歩き出す。

 彼はその間終始無言で、長い脚をさっさと動かしていくスピードに、環子は小走りになった。

 

 赤みの強い癖のある茶髪に、東洋人離れした白磁の肌。長身ではあるが細身のその何処に、大の男を軽々捻りあげる力があるのか。この辺りのチンピラで彼に絡む者はいない。

 

 その彼が勢い込んで向かう先は如何わしい色彩を放つホテル街。適当に決めてどんどん入っていく彼に、環子はただただ唖然とするばかり。

 

「ちょ……ちょっと!」

 

 顔の見えないカウンターで鍵を受け取り、ずんずん環子を引っ張って部屋に押し込めると、間髪入れずにベットに突き倒す。

 こんなホテルならではの総鏡張り。天井の鏡の驚いた顔と視線が合う。

 環子はさっと身体を引き起こして隅に避難するが、行く手を彼の腕に遮られた。

 

「どうして逃げるんです? さっきは見も知らぬ男とそうしようとしていたのに」

 

「朱李(しゅり)!!」

 

「ええ、今晩の寝床くらい提供しますよ、身体と引き換えに」

 

「――――――――――――っっ!」

 

 悲鳴にならない悲鳴を上げて、覆いかぶさってくる朱李から逃げるために、環子は身体を固くした。両腕を胸に引き寄せ、膝を曲げ顔をうずめて丸くなる。よく見れば、その身体は微かに震えていた。完全なる拒絶。

 

 しばしじっと彼女のその様子を眺めてから、朱李は息を吐いた。

 

「――冗談ですよ。全く……そんなに嫌ならどうしてあんなマネをするんです?」

 

 恐々と、ようやく顔を上げた環子の、その何ともいえない頼りなげな表情を見て、朱李は後悔した。

 

「…………別に、セックスしたくて誘ったんじゃないわ。眠る場所が欲しかっただけよ」

 

 か細い声が答えた。

 

「――そんなこと、出来るわけないでしょう」

 

 つい、朱李は呆れた口調になるが、それには少々むきになった環子が反論する。

 

「出来るわよ! 相手には幸せな夢を見る暗示を掛けて、眠らせればいいだけだもの。……こんな場所にいる方が見つかりにくいのよ……」

 

「誰に?」と朱李は尋ねたが、それに対しての答えは無かった。

 

 確かに異能の“力”を使って意のままに相手を眠らせることは、環子には出来るのだろう。しかし――。

 

 はぁとため息を一つ付き、朱李は環子の隣に腰掛ける。生憎隅にいたので、環子にもう逃げる余地は無かった。

 

「自分のマンションがあるでしょう。どうしてそこに帰らないんです?」

 

 環子は一人暮らしだ。ひょんなことで以前一度訪ねた事があったが……

 

「あの部屋で眠れるなら、最初からこんなマネ、しちゃいないわ」

 

 几帳面な朱李が顔をしかめた部屋は、まるで空き巣が無遠慮に荒らしまわったかのような有様だった。環子が片付け下手ということを差し引いても散らかり放題だったのは、本当に家捜しされたあとだったのだ。

 

「監視に盗聴、挙句は家捜しされるし……あの部屋はもう引き払ったわ」

 

 誰がそんなマネをしているのか、何故そんなことをされているのか、訊ねても答えは無かった。ここで繰り返しでも無駄なことは先ほどの件でも分かっていたので、しかたなく朱李は別なことを言った。

 

「それでいつもこんなマネを?」

 

 そっぽを向く環子は無言だが、それがかえって肯定を意味した。

 

「やれやれ、自分を大事にしにないにもほどがありますよ。……いっそ、ウチに来ますか?」

 

「―――冗談でしょ」

 

 眉をひそめて苦笑する環子に、朱李も苦笑を返す。

 

 

 

 今年の初秋、妹のクラスメイトとして知り合った環子は、常人離れしていた。特殊な能力があるのだ。それは自分たち兄弟も同じ。

 

 “同類”だ――はっきりしたその時、更なる興味を惹かれた。ただ、性格は未だにつかめていない。

 

 強気かと思えば、屈託なく明るかったり、今のようにしおらしくなったり。

 

 

 ――全く謎に満ちている。

 

 

 環子の柔らかなウェーブの長い髪を一房指に絡め玩ぶ。

 

「――折角ですから今晩は付き合いますよ。僕がソファで寝ますから、ベッドを使って下さい」

 

 朱李の提案に、環子は感情の読み取れない瞳で見つめ返す。

 ガラスのような瞳――環子が時々見せる表情だ。

 

「付き合うこと無いわ。兄弟が心配しているわよ」

 

「子供じゃあるまいし。連絡はしますが」

 

「……もしかして、またわたしがナンパしに行くと疑っているんでしょ! ご心配なく。寝床を確保したのにわざわざ出歩かないわ」

 

「そうですか、それはよかった。それじゃあ遠慮なく一緒にいて下さい」

 

 くすりと笑むと、環子は苦々しげにまたそっぽを向く。

 

「…………ソファでいい。というかソファがいい。ベッドは気が淀んでて気持ち悪いから」

 

 そして何もない虚空を見る。

 

 

 ――ああ、猫みたいなんですね。

 

 

 猫や子供が何も無い空間をじっと見る、それと同じような行動をしばしば見せる環子。その気性もどこか猫を連想させる。

 

 何と言うか、……そう、血統書付きの野良猫。

 

 言い得て妙だと微笑する朱李を、環子は訝しげに見返した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 どうも朱李とは相性が悪い。

 普段なら冷静にあしらえる事が、上手くいかない。

 いつもの手段が通じないのだ、朱李には。

 

 

 ――それとも、わたしが変なの?

 

 

 彼ら兄弟に接触するターゲットは既に決めてあった。だから朱李にはなるべく関わらないようにしているのに。

 誰かの嫌がらせではないかと疑ってしまうほど、会いたくない時に限って会ってしまうのだ。

 

 異能力者の河野(こうの)家四人兄弟。

 

 朱李に限らず、あの兄弟は皆全て美しいオーラを持っている。

 濁りの無い清浄で凄烈な。

 人間でそれほど美しいオーラを持つ者を、環子は他に知らない。

 

 だからその傍にいることは苦しい。薄汚れている自分の不浄さが、彼らに悪影響を与えるのではないかと思えてしまうから。

 

 

 ――接触は最小に、成果は最大に――

 

 

 そうした当初の目標はことごとく敗れている。彼らに普通の常識の枠組みは当て嵌まらないので。

 

 素通しのガラスの壁の浴室は、湯気で不透明になっている。

 その中でシャワーに打たれながら、つい左右の腕の匂いをくんくん嗅いでみても石鹸の匂いがするばかりだ。

 死臭など、自分では麻痺して既に感じないのだろう。

 

 

 ――わたし、人を殺してきたの。

 

 

 そう言ったらどんな顔をするんだろう。

 本当のことを打ち明けて、朱李を遠ざけたい心境に駆られる。近づいてくる分、拒絶する気持ちが強まるようだ。

 

 一番会いたくない時に会ってしまうなんて、なんて間が悪いの!

 葛藤する行き場のない苛立ちを拳に変えて、ドンと壁を一撃した。

 

 

 

 ◇

 

  

 

 壁を殴った音は聞こえていただろうに、その件は知らぬ顔で朱李がしれっと言う。

 

「残念ですが、掛布団は一枚しかありません。仕方ないので一緒に寝ましょう」

 

 一瞬、何を言われたか判断しかねた。

 

 

 ……一緒に寝ましょう!?

 

 

 意味を把握するのに数秒。

 とんでもない顔をしていたのだろう。朱李は口元を手で覆い隠して、それでも分かるほど笑っていた。

 

「何もしませんから安心して下さい。それでも信用できないのであれば、僕にも暗示を掛けますか?」

 

 そこいらの男たちならとっくに暗示をかけ早々に眠ってもらっている所だが。

 

「…………出来るならとっくにしているわ」

 

 そう、どういう訳か出来ない。それは初対面の時、既に実験済みであった。

 彼らの能力故なのかどうかは定かではないが……。

 

 苦肉の策で、環子がシーツに包まってから、朱李を背に一緒にベッドに潜り込む。

 はっと、遅ればせながら気づいた。

 

 

 ――これじゃあ、わたしが朱李に拘束されているみたいじゃない!?

 

 

 自分がずいぶん間抜けに思えた。

 さっき朱李がシャワーを浴びている間に逃げればよかったのだと、今更ながら気づいたのだ。

 

 

 なにやってるのよ、わたし! ホント馬鹿みたい。

 

 

 うかつな自分を呪っている間に、朱李は目を閉じている。既に眠ったのか、それとも寝た振りをしているのか。

 文句を言いたくて半ば上半身を起こし背後を見る。目を瞑っているその顔……

 

 

 きれいな男――。

 

 

 まず環子が見るのはオーラなのだが、朱李は容貌も際立っている。そしてあの言葉遣い。

 あまりに嵌りすぎていて、最初、本人を目の前に笑い飛ばしてしまった。

 

「……大丈夫、眠ってください」

 

 低い朱李の声と一緒に片腕がシーツ越しの体の上に回され、身動きを封じられてしまった。

 

 

 ――大丈夫なわけないじゃない!

 

 

 慌てふためく心臓。隣に居たくない。眠れない。

 

 

 ――ああ、やっぱり馬鹿だったわ。

 

 

 しばらくして逃亡をあきらめ、寝床に沈み込んだ。

 人の温もりが傍にある事に落ち着かない。

 でも、朱李が一緒にいるせいか、陰気に淀んだ部屋があまり気にならなかった。

 

 元々人が傍にいると眠りが浅いのだが、更にろくに眠れずに朝を迎えることになった。

 

 おそらく朱李も。